近況報告

お久しぶりです。飛鳥色です。

当たり前のように「お久しぶり」と書きましたが、なんと最終更新日は2年近く前なんですね。ブログの存在すら長らく忘却しており、この度ふとしたことから再び筆をとることに致しました。愛読者の方々に苦しい思いをさせてしまったこと、誠に申し訳なく思っています。嘘です。

2年間と一口に言いましても、自身の内外共に多大な変化がありました。学問に勤しみ、彼女に振られ、今では立派な社会人一年目です。色々な経験を重ねる中で考え方も大きく変わっており、昔のブログを読み返すと苦々しい気持ちでいっぱいになります。

さて、この2年間で考え方が変わったと書きましたが、その多くはデビット・ライス氏に影響されています。卒論含め、私の大学生活はデビット・ライス氏の思考を辿る旅だったと言っても過言ではないでしょう。無論彼の主張全てに賛成出来るわけではありませんが、フェミニズムや現代功利主義など、今まで馴染みの薄かった倫理学に興味を持ったのは、間違いなく彼の影響です。
さらに、「考え方」という点で最も影響を与えてくれたのが、ポジティブ心理学です。ポジティブ心理学に触れることで、私の人生の第一目的は「幸福の追求」へと変わりました。宗教学を学ぶ中で非物質的な概念の重要性に気づいたというのもありますが、今までの私の思考がいかに「認知の歪み」を抱いていたか、そしてそれがいかに間違っているかを知ったときには、まさに人生観を大きく揺さぶられるような感覚でした。

こう書くとなんだか宗教チックですね。でも大丈夫です。確かに理性では幸福追求を求めており、交友関係を積極的に築こうと思うようにはなりましたが、未だに根暗陰キャ性悪短気野郎で、友達すら満足にできません。事実、職場で友達ができず寂しいのでブログを再開したまであります。たとえ思考が変わったとしても、長年染み付いた卑屈さを消し去るには、まだまだ時間が必要そうです。

「善」について

こんにちは、飛鳥色です。

本日は「善」という概念について、日頃考えていることを書き連ねてみたいと思います。なお、偉そうに高説を垂れ流す割に美学や倫理学の知識が全くと言っていいほどないため、どうか浅学の戯言と思ってお読み下さい。

まず、言葉の定義から始めましょう。私の言う「善」は、そのまま「良いもの」くらいに思っておいてください。「善」に対立する概念は「悪」であり、こちらは「良くないもの、存在しない方がいいもの」くらいに思ってください。定義をするといいつつ全く明確化されていませんが、このまま曖昧な定義で使用していくので、明確な定義がないということさえ理解して頂ければ大丈夫です。

さて、今回は作品を例として考えていきましょう。ここでいう作品とは、我々が思い浮かべるような芸術作品の他にも、巷に溢れるポップカルチャーなどの大衆芸術、芸術以外の目的で産み出された周辺芸術も含みます。これらの作品を「善」と「悪」に分類した場合、その線引きはどうなるでしょうか。
私の考えでは、全てのものが「善」です。どれほどつまらない作品でも、どれほど有害な作品でも、「悪」に分類されるべきものはありません。全てが「善」であるため、ある作品への批判や妨害も「善」として捉えています。作品には個別の価値がありますが、価値を失うことも一種の価値の創造と考えているからです。例えば、ある作品が何らかの外的要因で危機に晒された場合、守ることも「善」ですし、壊すことも「善」です。先ほど「悪」の概念にて「存在しない方がいいもの」と書きましたが、ある作品を変容、または破壊してしまう作品は、存在しない時点では可能性にすぎないため「悪」とは言い切れず、変容、破壊してしまったあとでは取り返しがつかないため「善」です。

とはいえ、全ての作品を「善」としてしまっては、保護の観点など存在しない世紀末のような状態になってしまいます。当然全ての作品を「善」と思わない人もいますし(というかほとんどがそうでしょう)、自分の作品を保護して欲しいという要求も出てきます。このような要求と民主主義という方針によって、法の名や多数決という大義名分のもとに「善」と「悪」を分けているのが現状です。
害を産む作品は公共の福祉という観点から日の目を見ることがなくなる他、つまらなかったり不快な作品は人々の「一般常識」に当てはめられ、批判され、消えていきます。このような「善」と「悪」の線引きは議論と多数決でのみ決まり、大勢の権利を守るために少数の表現の自由が制限されてしまっています。私は常々「倫理観」というものを疑っているので、一方的な「悪」という決めつけには閉口せざるを得ません。先ほど「全ては善」と述べましたが、強いて言うなら「悪」と感じる感情だけは「悪」なのではないでしょうか。無論、そうした感情によって優れた作品が生み出されることもあり、存在しない方がいいとは全く考えていませんが。

個別指導講師としての苦労

お久しぶりです。飛鳥色です。

最近個別指導のバイトを始めました。時給はそれほど良くありませんが、ずっと座っていられる上に保護者と関わらなくても良い、さらに同僚の先生方も優しいと来たもんで、さっそく居心地の良さを感じております。こんなことならもっと早く始めれば良かったです。

さて、今回は個別指導をする際にふと思ったことを書き連ねていきます。今まで受験では集団指導のみにお世話になっており、先生に相談したこともほとんどありませんでした。そんな私ですので、個別指導として参考にするような師もおらず、現在は完全に独学で試行錯誤しながら教えています。授業内容は回数を重ねるうちに頭に入ってきて、予習もほとんど要らなくなりました。ですが、まだまだ未熟なところが山ほどあります。

まず、「生徒にとって初めての単元を教えることが下手」という問題です。小中学生の内容など当然常識の範囲であるため、知っているものと思って説明を省く癖がなかなか抜けません。特に成績が芳しくない子などは前の学年で習った内容から忘れていることもあり、上辺だけの説明では理解できないこともあります。また、いざ教えるとなっても、教科書を読み上げるだけになってしまい、私の存在意義が怪しくなってしまいます。かといって初学者に応用の知識を教えるわけにもいかず、とりあえず問題を解かせることに頼りきりになっているのが現状です。もっと熟練度を上げていけば生徒に合わせた説明が出来るようになるのでしょうが、画一的な説明すら覚束無い現状では望むべくもありません。

他にも、先述した問題にも関係しているのですが「何故分からないのかが分からない」という重大な問題があります。長年勉強をする上で設問を解くコツが不文律として脳内にインプットされており、「解けるけど何故その発想に至ったのか言えない」という事態が頻出しているのです。きっと巷にある参考書には解答を導き出すためのポイントなどが明文化されていると思うので、そのような書籍からエッセンスを拝借するのが手っ取り早い方法なのでしょうが、罪悪感と金銭の負担で二の足を踏んでいる状態です。

最後かつ最大の問題として、「生徒とコミュニケーションがとれない」という個別指導としては致命的な欠陥が私に存在します。長年内向的な性格を磨き続け、少数の友達とのみ馴れ合ってきた身としては、年齢も偏差値も性別も全く違う生徒たちと話す術を持ち合わせていませんでした。結果として雑談もなしにひたすら問題を解かせる堅物講師と化しており、個別指導の良さが丸潰れです。先に挙げた問題は何となく解決法が思い浮かびますが、この問題は性格の矯正でもしない限り解決しない気がします。加えて耳が悪いため生徒の声が聞き取りづらく、話す内容があっても返答出来ません。意思の疎通は円滑な授業の進行だけでなく生徒のやる気につながる大事な要素なので、何とかして話術を身につけたいところですが、解決への糸口も見えません。どうすれば年頃の女子と話題を合わせられるようになるのか、どなたか有識者の方教えてください。

「帰ってきたヒトラー」感想

さっそく飽きて放置していましたが、皆さんは元気にお過ごしでしょうか。どうも、飛鳥色です。

先日、「帰ってきたヒトラー」をAmazonプライムで観たので、感想を綴ってみたいと思います。あ、ネタバレ注意です。





観たのは字幕版で、評判が良かったのでなんとなく視聴しました。

この映画はその名の通り、2014年のドイツにヒトラーが転移してくる場面から始まります。
当初は右も左も分からない状態だったヒトラーでしたが、新聞などで現代の政治情勢を知り、再び政治活動に興味を持ちます。そしてヒトラーに目をつけたジャーナリストと共に、映像を撮りつつドイツを巡るというのが最初の方の粗筋です。
その後、局長に見初められたヒトラーは多くのテレビ番組に出演するのですが、巡業の途中で犬を撃った映像が流出し、テレビから追い出されてしまいます。
しかし、その間に書いた本が大ヒットし、転移してから現在までの経緯が映画化されることになります。
撮影の途中でヒトラーと旅をしていたジャーナリストは彼が本物のヒトラーだと気づくのですが、銃で撃っても死なず、そのまま映画のクランクアップという体で物語が終わります。

この最後の場面が非常に凝っていて、あくまで現実という体で描写されながらも、映画の撮影というメタ的な視点が混在されており、「今の描写は本当に起こった事なのか?」といちいち疑う必要が出てきます。「帰ってきたヒトラー」という映画と、その中で撮影されている「帰ってきたヒトラー」が絡み合うことで、「現実」に自信が持てなくなってしまうのです。
ここに、「現代の政治風刺」という要素が加わるとどうなるでしょうか。
映画内で挙げられていた政治的な問題は、今まさに現代ドイツが直面しているものです。現代にヒトラーが帰ってくるという物語は荒唐無稽ですが、「もし本当に帰ってきたら我々はどのような反応をしてしまうのか」という問いが、映画を通して投げかけられています。そこに最後の場面での「メタの混在」が加わることで、我々が実際の政治問題に目を向けるような構造になっているのです。

そうした問いを支えるように、映画内の民衆の反応はかなりリアルなものです。実際に現代でヒトラーのような活動家がいたら人々は変人だと持て囃すでしょうし、強い意志とリーダーシップをもつヒトラーの賛同者は少なくないでしょう。
そして、映画の後半にて、そうした反応が当時のドイツでも見られたことが明示されます。これによって、独裁者を見極める難しさを観賞者に知らしめているのです。

ヒトラーは作品を通してコメディに描かれていますが、信条や性格は当時から変わっていません。あらすじや冒頭部分だけを見ると、ただヒトラーを茶化した映画のように思えてしまいますが、この作品の根底にはヒトラーの異常性への嫌悪と、その異常性に賛同してしまう群集心理への疑問があるように感じました。
この群集心理は現在も変わっておらず、映画が公開されたあともナショナリズムの高揚が世界的な傾向となっています。こんな現代にヒトラーが帰ってきたら人々はどうなってしまうのか、そしてそれは完全な妄想と言えるのか。そんな夢想をさせるような、示唆的で愉快な快作でした。

ワードサラダとシュールレアリスム

どうも、飛鳥色です。

皆さんは「ワードサラダ」という単語はご存知でしょうか。端的に言うと意味をなしていない文字列のことなのですが、ネット上では主にスパムブログなどで使われる、自動生成された文章のことを指すらしいです。今回は、広義の方の「意味をなさない文字列」という意味で使っていきたいと思います。

具体例を調べるとわかりますが、ワードサラダは度々面白い文章が出来上がります。Twitterでは、フォロワーのツイートから自動生成された文字列を生み出す「しゅうまい」というアカウントがあり、人気を博しており、また、映画「パプリカ」に登場する所長が発した一連のセリフ(いわゆる「オセアニアじゃあ常識なんだよ!」)はコピペ化され親しまれています。どちらも常人が思いつかない突飛な文章という特徴があり、意外性が面白さに繋がっているのでしょう。

さて、そんなワードサラダに類似した文章を作り上げるのが、シュールレアリスムにおける自動筆記です。無意識の顕在化を求めるシュールレアリスムでは、何も考えずに文章を書くという自動筆記が考案されました。意識を介在しないという点でいえば、ワードサラダは現代の自動筆記といっても過言ではないでしょう。

当初の目的は違いますが、結果としてシュールレアリスムの精神が現代のインターネットに現れ、それが概ね好意的に捉えられているのは中々興味深いです。検索エンジンの進化によりワードサラダを使ったスパムブログは絶滅しつつありますが、前述のようにワードサラダは現在も人の目を惹き付けています。これから深層学習が進んでいけば、いつかはAIが自然かつ突飛な文章を書けるようになるかもしれません。現状のAIでは厳しいでしょうが、いつか「完全に意識が介在していない文章」を読める日が来るかもしれませんね。

感情の前借り

どうも、さっそく飽きてきた飛鳥色です。

今回は、普段感じている「感情の前借り」と名付けた現象について話そうと思います。
とはいっても、別にユニークな発想というわけではありません。「事前に期待や不安を抱いたぶんだけ、いざ当日になると肩透かしを食らう」というだけの原理です。皆さんも、夏休みは入る前が1番楽しかったり、プレゼンテーションは前日が1番嫌だったりしますよね?楽しいことはすぐ終わってしまい、辛いことは意外と大したことはない、なんてことは生活していてなんとなく気づくことでしょう。

特に不安が増大している場合、「どうせ大したことないんだからあまり考えないようにしよう」と思うことが多いのですが、そういうときに限って当日大失敗したりするんですよね。なので、不安になってしまったときには「今不安な分だけ当日楽になるのだから、不安を恐れないようにしよう」と考えるようにしています。不安から逃避するのではなく、不安を直視し、向き合ってあげることで、不安を有効活用できると思うんです。進化人類学的にいえば、不安という機能が人間に残っているということは、それが生存に有利だったからとみることができます。「感情の前借り」を行うことで、当日受けるはずのストレスを事前に軽減しているのかもしれません。

ストレスは一気に受けると必要以上の苦痛を伴ってしまいます。ですが、快楽は一度に得る量が少ないと、希釈されてよく感じられなくなってしまいます。この理論を適用すると、普段は不安を抱いてストレスを軽減しつつ、日頃から期待をしないようにするのが幸福を最大化する方法になるはずです。私はこれを実践しているのですが、不幸に感じることが少なくなった気がしていいですよ。ただ、期待をしないようになるので、副作用として将来の楽しみが全くなってしまいます。なので生きる活力がなくなり、普通に死にたくなります。お勧めしません。

ストレスをどんなに分割しようと、支払う能力がなければ破産まっしぐらです。結局、不安でストレスを分割し、期待によって細かく返済していく、いわゆる自転車操業でしか、人間はストレスに立ち向かえないのかもしれませんね。

自己紹介

さっそくエゴサをしてみたのですが、検索妨害になりそうな結果が山ほど出てきまして、早くも名前を変えたい飛鳥色です。

さて、今回は軽く自己紹介をしたいと思います。
ブログ名にもある通り、某大学で学問を嗜んでおります。特定はされたくないので大学名は晒しませんが、いつかネタが無くなったら大学に関する役立ち情報なども流すかもしれません。
趣味は特にありません。昔から物欲がなく、流されるままの人生を送ってきたので、ちょっとした自我の発信ができたらと思ったのがこのブログの開設理由です。

意外と紹介することがないですね。仕方ないので以下を雑記として自己紹介を終わらせていただきます。

・ブログは一応一日一回を目安として更新していきたいと思います。多分無理です。

・現在はですます調で書いていますが、ポエミーな気持ちになったらである調に変わるかもしれません。どうせ購読者なんてつかないのでどうでもいいですけどね。

・記事の内容はおそらく雑多になると思いますが、なんとなく
・観た映画、作品の感想
・学生生活や受験のお役立ち情報
黒歴史ポエム
の三本立てになると思います。特定は嫌なのでほとんど黒歴史ポエムになりそうですね。

とまあこんな感じです。のっけから文章をまとめる気がない辺りに能力のなさが垣間見えますが、どうかこれからお付き合いいただけると幸いです。

それでは。