「善」について

こんにちは、飛鳥色です。

本日は「善」という概念について、日頃考えていることを書き連ねてみたいと思います。なお、偉そうに高説を垂れ流す割に美学や倫理学の知識が全くと言っていいほどないため、どうか浅学の戯言と思ってお読み下さい。

まず、言葉の定義から始めましょう。私の言う「善」は、そのまま「良いもの」くらいに思っておいてください。「善」に対立する概念は「悪」であり、こちらは「良くないもの、存在しない方がいいもの」くらいに思ってください。定義をするといいつつ全く明確化されていませんが、このまま曖昧な定義で使用していくので、明確な定義がないということさえ理解して頂ければ大丈夫です。

さて、今回は作品を例として考えていきましょう。ここでいう作品とは、我々が思い浮かべるような芸術作品の他にも、巷に溢れるポップカルチャーなどの大衆芸術、芸術以外の目的で産み出された周辺芸術も含みます。これらの作品を「善」と「悪」に分類した場合、その線引きはどうなるでしょうか。
私の考えでは、全てのものが「善」です。どれほどつまらない作品でも、どれほど有害な作品でも、「悪」に分類されるべきものはありません。全てが「善」であるため、ある作品への批判や妨害も「善」として捉えています。作品には個別の価値がありますが、価値を失うことも一種の価値の創造と考えているからです。例えば、ある作品が何らかの外的要因で危機に晒された場合、守ることも「善」ですし、壊すことも「善」です。先ほど「悪」の概念にて「存在しない方がいいもの」と書きましたが、ある作品を変容、または破壊してしまう作品は、存在しない時点では可能性にすぎないため「悪」とは言い切れず、変容、破壊してしまったあとでは取り返しがつかないため「善」です。

とはいえ、全ての作品を「善」としてしまっては、保護の観点など存在しない世紀末のような状態になってしまいます。当然全ての作品を「善」と思わない人もいますし(というかほとんどがそうでしょう)、自分の作品を保護して欲しいという要求も出てきます。このような要求と民主主義という方針によって、法の名や多数決という大義名分のもとに「善」と「悪」を分けているのが現状です。
害を産む作品は公共の福祉という観点から日の目を見ることがなくなる他、つまらなかったり不快な作品は人々の「一般常識」に当てはめられ、批判され、消えていきます。このような「善」と「悪」の線引きは議論と多数決でのみ決まり、大勢の権利を守るために少数の表現の自由が制限されてしまっています。私は常々「倫理観」というものを疑っているので、一方的な「悪」という決めつけには閉口せざるを得ません。先ほど「全ては善」と述べましたが、強いて言うなら「悪」と感じる感情だけは「悪」なのではないでしょうか。無論、そうした感情によって優れた作品が生み出されることもあり、存在しない方がいいとは全く考えていませんが。